本がどうしても捨てられませんでしたが、子供の写真も大量です。
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38歳の私は昭和のアナログな時代を満喫して育った世代でもあり、アナログからデジタルへの変換期を体験した世代です。洋服は処分できましたが、趣味の読書でもある本がなかなか捨てられず苦労しました。
洋服でしたら年に1回着るか着ないかの服は捨てられるのに、1年に1回読むか読まないかの本は捨てられない。本がとても好きだということもありますが、もしかしたら私は「世間体」よりも「知識」や「自分の経験」に執着するタイプなのかもしれません。
先日も子供の写真を整理していたのですが、それなりの枚数がまだあります。自分の写真は全部捨てて、卒業アルバムも持っていません。子供の写真は子供のものでもありますので、処分が難しいです。
しかし、この先溜まる一方ですのでデータ化を考えたのですが、データ化してしまうと撮った写真はもう見ることがないだろうなぁ…とも思いました。アナログ世代ですので、どこか「手にする」「手で触れる」ということを重視していると思います。
しかし、ここでふと気がつきました。
むしろ手にすることができなくても「見たい」と思えば見ますし、手にできない状態で見もしないものなら、それだけの価値しかないのです。私の子供達は完全にデジタル世代ですので、私のように「手で触れる」ということはあまり重視しないのかもしれません。
彼らが成人した時に、重たいアルバムを何冊か持たされるよりUSBを1つ渡された方が助かるのかもしれません。生活をミニマルにするために紙のデータ化は随分前から有効な手段だと分かっていても、それをやりたくない理由を探していたのかもしれません。
写真1つにしてもアナログか?データか?という時点で、何か自分に変わることを迫られているようで、すんなりとはいかないものですね。人は変わりたいと願いながら、変わりたくないのだなぁ…と、自分を通しても感じます。
写真を「捨てる」というより、写真の「在り方」の問題です。どうあるべきか?という固定概念を柔軟にすれば選択肢としてのデータ化もやわらかく受け取ればいいのです。捨てる捨てないというよりは、「こうありたい!」という想いの問題ですね。物事の選択肢は多様な方がいいですし、経験した上で考えればいいのです。
私にとってミニマリズムとは、新しい風を取り入れる手段の一つでもあります。紙をデータ化して管理するという作業も、「知識」や「自分の経験」に一番執着するタイプの私にとっては、何でもないことですが大きな意味があるかもしれません。それをすることでこの先何かに直面した時に「次の一歩」が出やすくなるかもしれません。
いつも物を捨てる必要はありませんが、あり方を変えてみる…ということは挑戦であり、発想を柔軟にしてくれます。何でもない小さな一歩。そこを踏み出してみる。そのことで自分にどんな変化が起こるんだろう?と考えると、何だかワクワクします。