理想や完璧を求め過ぎることは、人を「記号」や「物」として見ることに通じる気がします。
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NHKの子供向け番組「ピタゴラスイッチ」に「ぼくのおとうさん」という曲があります。私のすごく好きな曲です。この曲の歌詞は、子供から見た自分のお父さんにフォーカスが当てられてます。
家にいれば僕のお父さん。仕事へ行けば会社員。職場では課長さん。お店に入ればお客さん。病院へ行けば患者。道を歩けば通行人。学校では生徒…一人の人間なのですが、色々な顔があります。
私は自分の子供にとっては「お母さん」ですが、夫にとっては「お母さん」ではありません。私が立場的に「親」として役割を果たすのは自分の「子供」に対してです。世の中の誰もかれもに対して私は「親」の役割を果たせませんし、24時間親であることは何だか息苦しく感じます。
私にフォーカスしましたら、職業欄には「主婦」という名前がつきます。主婦ならば子を生み、家族に尽くし、栄養満点の手の込んだ手作り料理を朝昼晩 出して、家もピカピカ、躾もバッチリ、貯蓄もシッカリでき、夫へは内助の功、義理の家族とも関係良好、ご近所・地域にも貢献し、いつも笑顔を絶やさず美し ければなお良し。
……それは無理な話。現実はあれもこれもできません。
「名前」がつくことで、その役割を果たすことを暗黙の了解で求められます。その場、その場での役割は確かにあります。しかしそれは『その場所』での話。そこを離れると私達は人格を持った一個人だと私は思います。
「名前」も一つの「記号」です。
個人や物を区別し、認識するための大切なものです。交通標識のように記号と機能にズレのあるものは困ります。しかし、生きている人間には色々な顔があって、色々な立場があります。
生きている人間に対して「記号化」し過ぎて見てしまうことは結局は人を「モノ化」して見ているのではないでしょうか?どこかに「完成品」が存在していて、その完成品からズレた「モノ」として人を見ているように私は感じます。
「名前」や「記号」は社会の機能として必要ですし、大切です。理想を求める、それも自由です。ただ、それを求めるあまり、人が「モノ化」してゆく感じが私は怖いのです。
個人が社会に、より適合してゆくことを目的にすると「記号化」することで社会との適合率は高くなります。しかし、人である以上人は「記号」ではありません。少し難しいですが「働くとは?」「社会とは?」という大きな問題があるように感じます。
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